2020年5月24日説教
聖書箇所:創世記2章25節と3章1節
2:25人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。
3:1さて、神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
テーマ:“裸を目指して”
今日は、25節の御言葉から“人と裸”が教えている意味を聞きたいと思います。
まず、人であるあるアダムについて述べます。
1.人であるアダムは誰なのか?
アダムはだれの“かたち”として造られたでしょうか?神様です。
アダムは“神のかたち”です。
そして、新約聖書でパウロは“神のかたち”は“御子イエス・キリスト”であると述べています。
*コロサイ1:15
“御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。”
“人であるアダム(男と女)は神のかたちであり、御子イエス・キリスト”であります。
アダムと御子イエスは究極的に一つであることを教えている内容であります。
キリストと一つであるという意味は、私たちも王であり、祭司であり、預言者であるという意味です。これは使命に関する内容でしょう。
すなわち、神様に造られたアダムである私たちにはキリストにある“王、祭司、預言”の使命が同じく与えられたということになります。
そして、これに勝利を得たものは神の子になるとヨハネは語っています。
*黙示録21:7節
“勝利を得る者は、これらのものを相続する。
わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。”
イエス・キリスト=神の子=勝利を得る者(神の民)
すると、アダムがアダムであるために、人が人であるために必要なのはキリストの使命です。
王としての使命:正義と公義の役割、
祭司としての使命:礼拝の役割、
預言者としての使命:御言葉の役割、
神様は私たちをこのようにアダムとしてお造りになられたお方であります。
このような根拠によって創世記2章25節までの人であるアダムはキリストの使命と一体となった私たちのことであると言えます。
創世記の3章からはアダムに罪が入って来るとこの一体が壊れてしまいました。
罪が壊したのは正義と公義の歩みそして、礼拝と御言葉による歩みです。
その意味で罪のある私たちアダムは来るべき方(キリスト)のひな型になります。
*ローマ5:14
“・・アダムはきたるべき方のひな型です”
*アダムに関する結論
2章25節に書かれている人(アダム)に与えられた使命が明らかになります。それはキリストと一体となる使命です。キリストとしての正義と公義を行う王の使命、神を礼拝する祭司の使命、御言葉の奉仕(伝道、宣教)をする預言者の使命と一体となったものであります。そのアダムはだれなのかというと今生きている私たちです。私たち一人一人は王、祭司、預言者として造られたアダムです。
創世記は3500年前の物語ではなくて今生きている私たちへの教えであります。
第一ペテロ2:9
“しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。”
そして、神様は私たちが神のかたちとしてのアダムであってほしいと願っておられるお方です。
神のかたちというのはキリストの使命のことであります。
それでは、次に“裸”に関する理解をともに考えて見ましょう。
2.“ふたりとも裸であった”は何を意味する内容でしょうか?
“裸”はヘブライ語で(ערומ)(Arom)アロムです。そして、その中に込められている意味は、私たちの目が命なる神(御子)を見上げる。です。
次の聖書箇所をみますと、“裸”は罪を脱ぎ捨てた状態であることがわかります。
罪を脱ぎ捨てたからやっといのちなる神を見上げられるようになったのであります。
*エペソ4:22
“その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、”
*コロサイ3:9
“互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、”
*ヘブル12:1
“こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。”
このような理由によって神への愛の告白である雅歌書を読みますとソロモンは“脱ぎ捨てた罪をどうしてまた着られましょう”と歌っているのであります。
*雅歌5:3
私は着物を脱いでしまった。どうしてまた、着られましょう。足も洗ってしまった。どうしてまた、よごせましょう。
聖書で“裸”であるということは聖められ罪のない状態のことを意味します。
しかし、25節の“裸((ערומ)Arom)”は意外と簡単な内容ではないなと思います。
なぜかというと創世記3章1節の“蛇は狡猾であった”で“狡猾”という言葉も“((ערומ)Arom)”であるからです。
そして、この((ערומ)Arom)がまた箴言の中でも“知恵”として書かれている言葉でもあります。
箴言12章16節を見ますと次のように書かれています。
*箴言12:16
“愚かな人は、すぐに怒りをあらわす、しかし賢い人は、はずかしめをも気にとめない。”
ここで賢い人と訳されている言葉が“((ערומ)Arom)”です。
箴言12章16節:賢い人は、はずかしめをも気にとめない。
創世記2章25節:裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった
*すると“賢い人”と“裸”は同じ意味として考えられます
そして、イエス様もこの((ערומ)Arom)の言葉を使いましたので紹介します。
*マタイ10:16
“わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ”
“へびのように賢く”で使われた“賢く”が((ערומ)Arom)です。
そして、知恵(賢さ)と裸は同じ意味として“神を恐れる”または“いのちなる神を見上げる”という意味があります。
*詩篇111:10
“【主】を恐れることは、知恵の初め。これを行う人はみな、良い明察を得る。”
すると考えましょう。同じ言葉であるアルムがある時には賢いという“知恵”に訳され、また、ある時には“狡猾”として訳されるのか?
その基準は御言葉です。
創世記の蛇は神様の御言葉を歪曲しましたので狡猾として表現されています。
また、御言葉を歪曲しないことを聖書は知恵または賢さと言っています。
蛇のような賢さ(知恵)を持っているということは、イエス様のように真理といのちを知っていることであります。
この知恵があったからイエス様は、目の前に十字架という恐ろしい苦しみと死があっても歪曲しないで、へびのような賢さをもってまっすぐに十字架の上にのぼられたのであります。
蛇のような賢さは安全な道に素早く逃げるという意味ではなくて、何が真理なのか、そして、何がいのちの道なのかをよく見分けることです。
そして、安全ではなくても、苦しみがあっても真理の道であれば、いのちの道であれば真っ直ぐに歩むことです。
これは御言葉である“ダバル”も同じでしょう。
御言葉であるダバル(דבר)を歪曲すると伝染病デベル=(דבר)になります。
*創世記15:1
“これらの出来事の後、【主】のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。” 主の言葉=ダバル דבר
*民数記14:12
“わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう。” 疫病=デベル דבר
現在UNに登録されている全世界の国は216ヵ国だそうです。
そして、コロナ19によって被害を受けている国の数も216ヵ国だそうです。
世界がいつ終わるのかというと全世界に神の御言葉であるダバルが宣べ伝えられるその時、世の終わりが来ると聖書が語っています。
ところが、全世界に宣べ伝えられているのはダバルדבר(御言葉)ではなく歪曲されたデベルדבר(伝染病)です。
それで私は、コロナからの回復より、御言葉の回復を祈ります。それが先ではないかなと思います。
25節の“裸”の表現にもどりましょう。
結論的に“人とその妻は、ふたりとも裸であった”という意味は“真理であり、いのちである神を信じ見上げていた”という表現であります。
そして、裸の反対である服を着ることは神を見上げず、そして御言葉に背いて自分勝手に生きるという罪を表します。
また、3章で触れると思いますが罪を犯した私たちアダムに神様は何を着させましたか?真理であり、いのちであるキリストです。
*コロサイ3:10
“新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。”
*ガラテヤ3:27
“バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。”
*ローマ13:14
“主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。”
キリストを着ているという意味はキリストの恵みによって再び真理でありいのちである神を見上げるようになったということを意味します。
結論
それでは、人でありアダムである私たちがキリストを着ることは何を意味する内容でしょうか?
それは、キリストと一体となって王であり、預言者であり、祭司である使命に生きることです。
そのような歩みが知恵ある人の歩みであり、真理であり祈りである神を見上げる歩みであります。
この知恵ある祝福が皆様の上に豊かにありますように祈ります。